この話本当の話でしょうか?
「囲碁・将棋チャンネル」を観ていましたら、こんな話題がありました。
囲碁棋士が、タイトル戦の後などに興奮して火照った頭を冷ますのに、よく将棋を指して興奮を鎮めるそうです。
日本棋院にも将棋盤があって、プロ棋士同士がよく将棋を指しているそうです。
ところが、将棋の棋士は、対局後に囲碁を打たないそうです。
囲碁は頭を使いすぎるので、却って疲れてしまうそうです。
先日もあるトップクラスの将棋棋士のインタビューで、「本当は囲碁棋士に転向したい」と話していました。
しかし、年齢の問題で、将棋で行くとのことでした。
囲碁の方が国際的であることと、ゲームとしてのレベルが上だ、とのことです。
将棋にしても囲碁にしても、プロがコンピューターに負けるようになれば、プロ棋士は失業するでしょう。
絶対的に強いことがプロの魅力だからです。
今後、より永くプロ棋士が存在し続けるのは、やはり囲碁界でしょう。
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史上最大の将棋棋士の一人である大山康晴十五世名人は、タイトル戦の時に前日の晩や第一日 (大山全盛期のタイトル戦は二日制が普通) の晩に麻雀や囲碁で気分転換をするのを常としていました。
相手は、対局相手の棋士、棋戦主催社の観戦記者、立会人の棋士が主だったようです。
当時は、今のように序盤の研究が進んでいず、二日制のタイトル戦の第一日目は和やかに進みました。昨年の名人戦で、第一日目に、大山全盛期から観戦記を書いている老観戦記者が羽生名人に持参した扇子へのサインを依頼した事件がありましたが、昔であれば何も問題視されることはなかったでしょう。
一日目の対局は17時30分で「打ち掛け」になり、どちらかが封じ手を行うのは現在と同様ですが、早く対局を切り上げて食事、次いで囲碁や麻雀をしたい大山は、16時ごろに「17時半までの残り時間を折半して一方が封じ手をし、一日目の対局を切り上げよう」と提案するのが常で、断れる棋士は中原誠十六世名人が「大山を実力で越える」時までいなかったそうです。
まだ青年期の中原が、タイトル戦の夜に、浴衣を着て大山と囲碁を打っている写真が、昨年の将棋世界の「中原十六世名人引退特集」に掲載されていました。
なお、囲碁の故・中山六段が書いた本
完本 実録囲碁講談 (岩波現代文庫)
http://www.amazon.co.jp/dp/4006020716/
によりますと、大山と同世代の囲碁棋士の強豪の多くが将棋を趣味にしており、日本将棋連盟からアマ高段者の免状を受けている人も多かったそうです。
『囲碁の方が国際的であることと、ゲームとしてのレベルが上だ、とのことです』
囲碁の方が将棋より国際的であるのは「常識」ですが、「囲碁の方が将棋よりゲームとしてレベルが上だ」と公言する人は一人も知りませんが?
どちらのゲームも、「人智でとうてい極められないもの」であることは同じです。
前に、神様の囲碁の力、将棋の力を100とすれば、自分の力はどのくらいですか?と囲碁と将棋のそれぞれのトップ棋士に聞いて同時に答を開けたら、どちらも「1くらいでしょう」と答えた、というエピソードを読んだ記憶があります。
『将棋にしても囲碁にしても、プロがコンピューターに負けるようになれば、プロ棋士は失業するでしょう』
チェスでは、既に最強プロがコンピュータに負けた前例があります。
ですが、欧米ではそれ以前と全く同じように「プロのチェス棋士」が活動していますが?質問者さんはどう理解しますか?
よく言われることですが、自動車やウマよりずっと遅いことが明らかでも、陸上競技の男子100メートル走で9.**秒の争いの価値は影響を受けません。100メートル走の選手たちは、苦しい練習に耐え、時にはドーピングを行ってまで、世界大会での優勝、世界記録の更新、それによる報酬の獲得を目指しています。社会も選手も「人間がいかに早く走れるか」に意味を見出しているのです。
コンピュータが指す将棋と、羽生名人が指す将棋は全く別の価値を持つものです。
近い将来、羽生名人 (その後継者たる最強将棋棋士) を負かすコンピュータが出現する可能性は大きいですが、そうなっても将棋棋士の存在価値はほとんど何の影響も受けないでしょう。
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その強い棋士が韓国だか中国人なんでしょ?(笑)
日本の囲碁は女性に負けるほど弱く、天才が居ない。
というか雑魚ばかりということになる。
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よく、2日制のタイトル戦の1日目打ち掛けのあと、頭の凝りをほぐす(?)、運動の後のストレッチというような感覚で、将棋や麻雀を軽くやる、ということは昔からあったようですね。
将棋の相手は、もちろん対局者同士ではなく、観戦記者や立会人、解説に来ている棋士などの関係者。
囲碁棋士が頭のストレッチのために将棋をするが、将棋棋士が碁をやらないのは、別に碁将棋のレベルの違いではないと思いますよ。
頭を休めるためにやるのですから、それに真剣になり集中しては逆効果。
なので、大半の囲碁棋士の将棋は一般のアマチュアレベルだし、あまり囲碁棋士同士が将棋の強弱を論じるのを聞いたことがありません。気分転換になると割り切っているのかと思います。
対して、将棋棋士同士は、囲碁の力の上下に相当なこだわりのある方が多いように思います。将棋棋士の碁のほうが、囲碁棋士の将棋より、はるかにのめり込んでいる人が多いというのは、いろいろな記事を読むと、良く感じます。
それでは、将棋棋士にとって、囲碁は気分転換になりにくいのではないでしょうか。
囲碁将棋が、コンピュータに勝てなくなったら、ほんとうにプロが消滅するでしょうか?
コンピュータが真理・結論を究めることが出来たとしても、人間の知能がどこまで真理に迫ることができるのか、それは、いつまでも人の興味を引き、専門家は残ると思います。
事実、チェスは人間のグランドマスター並みになったといっても、プロも競技も廃れたわけではありません。
オセロはほとんど全て最善が極められていても、人間同士で楽しんだり、強いプログラムに挑戦することを楽しんでいます。
将棋で、終盤、詰むかどうかが読めず、控え室で多くの棋士が喧々諤々していたところに、『そんなもの、詰め将棋のプログラムに局面を入力すれば、一発で答えがでます』と発言して、周りの大顰蹙を買った棋士がいたそうです。
プロは、人間としてのプライドを賭けて戦うのです。
人間がマラソンで42.195kmを走るのに、走法・スタイルの進化、道具の進化、筋力のトレーニングで2時間何分になった、というところに、『車なら1時間でいけるよ』なんていっても意味がない。
例えとしては変かもしれませんが、そういうことと同じではありませんか?
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