2012年3月23日金曜日

囲碁は将棋より上位は江戸時代からだった? 徳川家康は江戸開府後に囲碁、将棋所を...

囲碁は将棋より上位は江戸時代からだった?

徳川家康は江戸開府後に囲碁、将棋所をそれぞれ作りましたが(両競技の愛好家として)囲碁の方に俸禄を支給し、将棋には支給しなかったようです。



なぜ?


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徳川家康の囲碁好きは有名ですが、秀吉は天正16年(1588)に碁打ちの名手を集めて{御前試合}を行います。

この時、勝ち抜いて勝利したのが京都の日蓮宗寂寺にある塔頭の一つ”本因坊”の僧侶日海で(別名を本因坊算砂:サンサ)

秀吉は算砂に「碁之法度可申付」の朱印を授けます。

この試合で算砂と争ったのが、利賢(利玄坊)・樹斎・正林などです。



本因坊算砂は囲碁も名人ですが将棋も上手く、家康の指示で慶長10年には江戸城で、慶長13年には大坂城で秀頼の前で宗桂と将棋の対局を行なっています。



慶長17年(1612)に家康は「碁打衆・将棋指衆御扶持方給候事」として、碁打ち・将棋指しの年俸を決めています。

{本因坊算砂・利玄坊・宗桂が50石5人扶持。道碩50石。算哲30石。春知・算碩・仙重20石}



この慶長17年に扶持を受けて碁打ちを継承・相続した家が寛永12年(1635)には本因坊家・安井家(算哲)・井上家(道碩)・林家(利玄坊)の四家が残り、この四家が囲碁で幕府に仕える家元となります。

(この囲碁役は寺社奉行の配下となり、寺社奉行が設置されたのが寛永12年ですので、この年に”碁所役”四家が任命された)



囲碁役には俸給があり、将棋指しには俸給が無いのは何故とのことですが、寛永12年に残った四家が碁所役となり、彼らは将棋でも名人級の腕であったので俸給は囲碁役として支給されたと考えます。



この四家には俸給が支給されますが、碁打ちの者の力を認定して免許を与えることも収入源となります。

また、碁所司という最高栄誉を勝ち取った四家の中の一人は朱印地300石・20石住人扶持も与えられます。



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元々は、国技といわれたのは相撲ではなく囲碁でした。将棋とは格がまるで違い、

本因坊ともなれば各大名から大層尊敬もされ丁重に扱われました。

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